人を愛しすぎてしまう人たちに祝福を

めいちゃんのブログです

カンボジア旅行記―取り留めもないこと

最初に訪れた首都・プノンペンの街並みの美しさに、息をのんだ。なんとかこの感動を所有したいと思ってスマホのカメラレンズを街に向けたが、何もかもが写りきらなかった。何がどう美しかったのかは言葉では説明しづらい。しかしそこには働く人、涼む人、そこに生きている人たちのエネルギーが溢れていた。

初めて海外に行ったというわけではない。でも、見たことない風景だった。この街を見たいがために私はこの地をまた訪れるだろう、そう思った。変わってほしくない、と思った。そこではたと気づいた。この気持ちはエゴであろうか。カンボジアという国はとてつもなく速いスピードで発展するだろう。外国の資本がどんどん入り、いつかはどこかで見たような建物がこの街を覆うのだろう。私は、それを黙って見つめることしかできない。だってこの街は彼らのものだから。

骸骨がうずたかく積まれていた。キリングフィールド。見学者には欧米人と思われる人たちの姿が目立った。目を瞑って想像をしてみた。この地で爆音の音楽の中、夜な夜な人が殺されたということ。畑を耕していたら地雷を踏み、爆風とともに自分の足が飛んでいったということ。アメリカの爆弾がこの地にたくさん降ったということ。あぁ、ここにきているアメリカ人は自分の国の歴史を背負っているのだなと思った。彼らはどんな風に思うのだろう。自分とこの地をどんな距離感を持って考えるのだろう。不発弾が残るこの地に今はスコールが降る。稲を育てるスコールが降る。

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 カンボジアから帰ってきてからいろんな人に土産話をしたが、この話を繰り返し繰り返し私は熱心に話した。「もし、幸せというものを笑顔の数で計るのだとしたら東京の人よりカンボジアの人の方が幸せなんだと思う」。現地で働く日本人が言った。うさんくさい言葉だと思った。しかし次に言った言葉が頭から離れない。「彼らはさ…そう、ちょうど自転車に乗って笑いあう中学生みたいに笑うんだよね。子供から大人まで」。

ちょっと信じられないくらいの数の人が自死に追い込まれる東京のようには、カンボジアの人たちは鬱をはじめとする精神疾患に悩まないのかもしれない(医療というものが発達していないので正確にはわからないが)。じゃあ彼らは幸せなのだろうか。

私は、決して病気や自殺というものを肯定したいわけではないが、そういう人たちを不幸せだとは言えないと思っている。自分や周りの人間に十分すぎるくらい向き合って病んでしまう人たちの輝きを私は覚えていたい。

……とこんな調子で話を人にすると「幸せって何かという問いのこと?それは哲学的だねぇ」なんて突き放したようなことを言われるのだが、そんなことを言いたいわけではなくって…もっととりとめのないこと。もっと感覚的なこと…。

今回のフィールドワークでは、言葉にならないこと、結論が出ないものをいっぱいいっぱい吸収した。想像していたものとは少し違っていて、現地で直接見て聞くってこういうことなのだと知った。

 

 

 

大学に提出するための1200字の感想レポートをそのまま転載。

ブログ用に書き溜めたカンボジア旅行記も後日アップしたい。